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神さま、あのね。。

  • 執筆者の写真: なるせゆうや
    なるせゆうや
  • 2023年3月27日
  • 読了時間: 4分

【神さま、あのね。。】


2012年の夏。



僕は家から30分ぐらい歩いた


森の中にある神社に通いつめていた。



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蝉がミンミン鳴いている


田舎道を抜けて、



森に入れば、


暑かった夏の日差しは


キラキラした木漏れ日に変わる。




涼しい風を感じながら


僕は森の中の整った神社に


通いつめていた。





神社にあるお清めの水。




僕はその水の心地良い冷たさを


味わいながら手を清めた。




それは


ただ単に暑かったから、




涼みたい一心で、


心地良い水の感触を味わっていた。








そこの神社で


僕は神さまに最近の報告をしていた。





『神さま、あのね。』





そう心の中で


神さまに話しかけていた。





そして、これから


自分がどんな風に生きるのかを伝えて



『良かったら、


見守っていて下さい。』




と神さまに伝えていた。








神社にお願いをしに、


行くわけではなく、



正直、神さまとお話するように


その神社に通いつめていた。







僕のYou Tubeを観ている人は


実は僕が神さまを居ないと思っていることは


知っているだろう。






神さまは居ないと理解した上で、


あえて神さまを信じている。




僕はそういうスタンスを


とることによって、



自分自身の人生を


力強く歩めるようにしている。





それは亡くなった曾祖母が


いつも自分を見守ってくれている。




そう信じ込むことで、


安心できる気持ちに似ている。






僕は、そんな風に、


神さまの力をお借りしている。








人間の感性の面白い部分は


頭で神さまが居ないと


ちゃんと理解していても、




実際に神社に足を運び、


お参りをしていると、




やっぱり、神さまが


居てくれているような感覚になる。






尊い気持ちというか、


崇高なモノに触れている感じ。





僕はそれを『大きなモノ』と


昔から呼んでいる。






スピリチュアル系の人たちが、


『ソース』とか


『宇宙』とか




そう呼んでいるモノに対して、


僕は『大きなモノ(完全性)』と呼んでいる。







神社に行き、


静かに手を合わせ、


神さまに色んな報告をしていると、



やっぱり自然と


崇高な気持ちになり、




『大きなモノ』を


感じてしまう。







大きなモノ。


つまり、僕ら人間の人知を超えた


とても崇高なモノを感じる時、




とても気持ちがよく、


宇宙の真理に触れている。




そんな気分になる。






だから、僕は昔から、


その『大きなモノ』を


感じる時間が好きだった。






その『大きなモノ』を感じている時、



生命として、


本当に大切なことを


思い出せるというか、




『あ、生きていく上で、


コレが大切なんだなぁ。』




ってすごく実感するモノを


感じることができる。







それは言葉では表現しづらく、


あえて、言葉で表現すれば、




『崇高で、尊いがゆえに


完全性を感じてしまうモノ。


真理を感じてしまうモノ。』






もっと平たい言葉で言えば、



『神さまを感じるモノ。』





とも、言えるかもしれない。





その『完全性』を感じる時、


理屈ではなく、



『これが真理だ。』


『これが本当に大切なことだ。』




と実感してしまう。







僕らが心で感じている


その『完全性』は




「なぜ、それを完全性と言えるのか?」





と改めて冷静に


自分自身に問いただしてみると



それが『完全性』である根拠は


よくよく考えたら何もない。





よくよく考えたら、


それが『完全性』である根拠は


まったくないのに関わらず、




僕らは、それを『完全性だ』と


ハートで感じてしまう。






僕が神社で感じていた


その『完全性(大きなモノ)』は




本当のことを言うと


『完全性』であることを


証明することはできない。




根拠もない。






根拠もないけど、


なぜか、何となく、


ハートでそれが『完全性』だと


確信していた。







個人的に、哲学をする者として


『完全性』だと証明できないモノを


完全だと言い切るわけにはいかない。





だから、僕は


神さまは居ないと言う。





しかし、証明できなくても


主観的には



神社で『完全性(大きなモノ)』を


ハートで感じてしまっている僕がいる。





理屈抜きで、


『完全性(大きなモノ)』を


感じとってしまう。





完全性(大きなモノ)を


感じ取ってしまうから



その崇高で尊いモノを確信し、


力強く歩んでいける。






大きなモノが


僕の背中を押してくれる気がする。







正直、


それで良いと思っている。






完全性を冷静に考えて、


完全性だと証明できなくても




完全性(大きなモノ)を心で感じ、


力強く生きていけるのなら、



僕らの人生にとって、


それはすごく大切なことだと思う。





そして、その完全性(大きなモノ)に


触れていることで、




なんとなく僕らは


尊く、崇高な心を


自分の中に宿して生きていける。





つまり、大切なことを


忘れずに生きていける。








だから、僕は


神さまが居ないことを知りながら




神さまが居ることを感じて


生きることが好きである。








勇気も湧く。




崇高な気持ちで居られる。




大切なことを忘れずに居られる。










何を信じるかは


それぞれの自由である。





すべての人類が


同じモノを信じなければいけない理由も


まったくない。







それぞれが


それぞれの大切なモノを心に宿し、



それぞれが


それぞれに信じるものを持ち、



それぞれにとって


より良い人生を送ってくれれば


それが一番、良いと思う。






僕も。


あなたも。


地球もみんな。






今日も、ありがとう😊🍀✨






【トラブルが少ない人の生き方&考え方】


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
 
 

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