弱さも、未熟さも。
- なるせゆうや
- 2020年6月28日
- 読了時間: 9分
【弱さも、未熟さも。】
2012年の3月、
僕の人生は途方もなく
行き詰まっていた。
仕事中の焦りと不安が
ハンパなくて、
心に余裕がないから
色んなことが空回っていた。
焦りと不安から
仕事がうまくいかずに
心だけ疲弊して
疲れ切った心と身体で
毎日、重たい足どりで
帰路をトボトボ歩いていた。
そんな行き詰まった僕とは
無関係に
やっぱり星空はキレイで
夜空を眺めながら
夜の冷えた空気を味わいながら
毎晩、トボトボ帰宅の道を
歩いていた。
どこで仕入れた情報なのかは
忘れたけど
笑うことや笑顔でいることが
人生を良くすると知って
いつも、笑顔でいることを
心がけていたけど
昔のようにうまく笑えなくなった僕は
引きつった、ぎこちない笑顔と
それにも疲れ切ってしまって
なんだか、生きてる意味を
深く考えたくなっていた。
『なんで、生きてんだろ?』
『働いて、毎日、
同じことを繰り返して
コレは何なんだろう?』
そんな感傷に浸りながら
いつも星空の下を帰っていた。
ちょうどそのぐらいから
よく、瞑想と内観を
するようになっていた。
自分の中に
何か違和感を感じていて
その内側の違和感を
探しに行く旅のように
僕は内観に明け暮れていた。
瞑想して、
心を静めて、
心の内側を覗きやすい
静かな心になったら、
そのままの静まった心の海に
『ジャボンっ!』
ってダイブをして
心の海の底に感じる違和感を
探しにいく心の旅を
毎晩のようにしていた。
その違和感は、
僕が僕にウソを
ついていたことで生まれた
自分の悲しみそのものだった。
もう、その頃には
子供の頃の純心は
遠くに置き去られしまい、
ムリをすることも
我慢をすることも
得意になってしまっていた。
自分の気持ちにウソをついて
社会人らしく、
大人らしく、
ムリをすることが
当たり前になってしまっていた。
だから、自分の本音とか
ありのままの自分の気持ちとか
遠くの彼方に
捨ててしまったように
生きる事が当たり前になっていた。
そんな当時の僕にとっては
瞑想と内観は
恐ろしいワークだったに違いない。
ガマンしていた、
見つめることをやめた
自分の感情や想いを
わざわざ見つめるようなモノだった。
忘れ去られた
純粋な僕を
もう一度、
迎えに行くようなものだった。
子供ころは
遊びたいだけ遊んで
笑いたいだけ笑って
泣きたいだけ泣いて
落ち込みたいだけ落ち込んで
アニメを見たいだけ見て
お菓子を食べたいだけ食べて
何かに善悪をつけることもなく、
良いとか
悪いとか
そーゆー概念もなくて
ただ、今の想いに
素直に生きる事が常だったのに
いつからなんだろうね。
僕らが想いのままに
泣けなくなったのは。
ホント、いつからなんだろう。
僕らが想いのままに
休めなくなったのは。
僕らが想いのままに
何かをやり始めたり、
想いのままに
何かをやめてみたり、
子供の頃は、
急にやめることも
急に始めることも
良いとか
悪いとか
そんなこと考えずに
ただ、想いのままに
僕らは動いていたけど。
ホントに
いつからなんだろうね。
そーゆー色んなことに
良いとか、悪いとかの
レッテルを貼るようになり、
そーゆー色んなことに
上手にガマンできるようになったのは。
そのガマンが常になると
本音とか、素直な気持ちとか
そーゆーのも
分からなくなった大人のように
2012年の3月、
僕は自分の素直な声が
聞こえない人になっていた。
ただ、まったく
聞こえないわけでもなく
『心の中の違和感』
として、
僕の内側の声は
絶えず、僕に語りかけていた。
瞑想と内観を通して
その心の海の底に
ダイブするようになったことが
僕が僕を取り戻していく
きっかけになった。
その心の違和感を探す
自分の心の海に潜り始めると
『あ〜こんなことを
僕は想っていたのか。』
ということが
海の底から
ポコポコ出てくるようになった。
頑張って働くことや
頑張って成果をあげることや
効率よく仕事をすることに
みんなに喜んでもらうことに
頭がいっぱいだった僕は
そこに『自分の幸せ』
という発想がなかった。
自分のことは置いといて
会社のため、
お客様のため、
周りのスタッフのため、
そのために考えて生きていた
その頃の僕は
自分がボロボロになっていることに
気がついていなかった。
内観して、
心の海に潜って、
大きな僕と
小さな僕の
会話の中で
僕は小さな僕から
衝撃的なことを言われた。
僕は本音の僕から
衝撃的なことを言われた。
その小さな僕は
まるで幼いころの僕のようで
子供のようで、
でもとても素直で、
大きな僕に
こう伝えてきた。
『もう、頑張りたくないよ。』
『もう、笑えないよ。』
その声が聞こえた瞬間、
どこから溢れているのか
わからないほどに
とめどなく涙が溢れてきた。
今まで、
何かを抑えてきたのかな?
その抑えてきた分なのか、
とめどなく涙が溢れてきた。
それは大人である大きな僕が
子供である小さな僕を
たくさんムリさせていた事への
『ごめんね。』って
気持ちだった。
もう、笑えないのに
『笑顔でいろ!』
って小さな自分に
ムチを打って生きてきた。
もう、頑張れないのに
『もっと頑張れ!』
って言いながら生きてきた。
それはまるで
自分の子供が泣きながら
『もう、頑張れない。』
ってうったえているのに
親である自分が
『それでも頑張れ!』
って泣いている我が子に
ムリをしいっているような感覚だった。
小さな僕のその声が聞こえて
僕はしばらく、
春の夜の静けさの中、
暗い部屋で一人泣いていた。
『ごめんね。』
『いっぱいムリさせて、
ごめんね。』
『いっぱい、頑張らせちゃって
ごめんね。』
『もういいよ。』
『今まで、本当に
よく頑張ってきたよね。』
『あの時も、君は
本当によく頑張ってきたよね。』
『ちゃんと君が
頑張っていたこと知ってるよ。』
『誰よりも頑張っていたこと
ちゃんと見てたよ。』
『だから、もう、いいよ。』
『もう、頑張らなくていいよ。』
『本当によく頑張ってきてくれたね。』
『本当に、ありがとう。』
『もう、いいよ。』
『頑張らなくていいよ。』
『今までムリさせちゃってごめんね。』
『今まで頑張らせちゃってごめんね。』
『もう、いいよ。』
『もう、ムリしなくていいよ。』
『今まで頑張ってくれて
ありがとうね。』
『もう、いいよ。』
『弱くても、頑張れなくても、
未熟でも、泣き虫でも、
君が君で居てくれたら
それだけで十分だよ。』
『だから、もう、
偽ることもやめて、
ムリすることもやめて、
プラスもマイナスもある
そのままの君で居てね。』
『笑える日も、
笑えない日もある、
そのままの君で居てね。』
『未熟な時も
すごい時もある
そのままの君で居てね。』
『偽らないで。』
『ムリしないで。』
『そのままの君で』
『ありのままで君で』
『マイナスも、プラスもある、
未熟さも、凄さもある、
弱さも、強さもある、
汚れも、美しさもある、
そのままの自然な君で居てね。』
2012年の春の夜に
とめどなく溢れた涙と同時に
何かとてつもなく
大切なモノを思い出せた気がした。
なんとなく、僕の中で
絶対に忘れちゃいけないような
すごく大切なモノを
思い出せた気がした。
それは新しい自分が
自分の中に生まれるのではなく、
そーゆー外から
付けたようなものではなく
元々、自分の中にあった
大切なモノが、
埋もれていた心の底から
見つけ出された感じ。
自分の内側に元々あった輝きが
取り戻されるような感覚。
内側に眠っていた
大切なモノを
思い出すような感覚。
何か、自分の心の垢が落ちて、
自分が本来の自分に
戻っていくような感覚。
涙と一緒に
そんなモノが出てきた気がした。
それから僕は
ムリをしなくなった。
自然体で
生きるようになった。
人生も、自分の想いも、
穏やかな風に委ねるように
風に身を委ねるように
生きることにした。
笑いたくない時は
笑わない。
笑いたくなったら
笑う。
元気が出ない時は
ムリに元気を出さない。
元気な時は
そのままの元気でいる。
とにかく、ムリをしない。
自分を偽らない。
元気がなくても
笑えなくても
コレが今の私です。
そうやって生き始めたら
肩の力が抜けてきた。
自然体で
いられるようになった。
自分以上にも
自分以下にもならずに
ただ、ただ、自然体な自分が
そのままの自分がいるだけ。
そう生きるようになってから
ものすごく心が楽になった。
心が軽くなってきた。
どんな瞬間の自分も
許せるようになってきた。
どんな瞬間の自分も
好きだと思えるようになってきた。
誰かの未熟も、
世界の汚れも、
それがあることで
誰かはむしろ完全な存在で
世界はむしろ完全な存在で
そーゆー誰かの未熟や
世界の汚れがあるこの宇宙が
ありのままの宇宙が
とてつもなく美しく感じた。
優れているから
美しいから
この宇宙は美しいのではなく、
未熟でもあるから、
汚れてもいるから、
この宇宙は美しいんだと思った。
それから僕は
『自然体でいること』
『ありのままで自分でいること』
『自分を偽らないこと』
そう生きるようになってから
行き詰まっていた人生は
自然と何かが巡りだしていた。
焦ることや不安になることも
少しずつ減ってきて
自然体に、穏やかに
いられるようになったから
仕事も、スムーズに進み、
人生の物事も、
ゆっくり動き出していた。
自分が本来の自分に戻ったことで
まるで止まっていた時計が
動き出したようだった。
『僕が本来の僕に戻り
本来のあるべき自分でいれば
人生も本来の人生に戻り
本来のあるべき人生に戻るのかな。』
なんて、思ったりもした。
心に余裕がある時は
天国言葉とか、
ありがとうとか、言って
心の調子や人生の調子を
良くしていくけど
それは自分が『自然体でいる』
と言うことの前提の上に
存在していると僕は思っています。
僕はね。
まずは、自然体でいること。
自分が本来の自分でいること。
その上でちょっと
ありがとうとか、大好きとか
言うようにしています。
この世界には
晴れの日もあれば
雨の日もあります。
夏もあれば
冬もあります。
昼もあれば
夜もあります。
そして感情も
喜怒哀楽、色々あります。
そう考えた時、
人生が喜びだけとか
感情が楽しいだけ
っていうのも
もしかしたら
少しおかしな事なのかもしれない。
夏があり、冬があり、
晴れがあり、雨があり、
昼があり、夜があり、
そのすべてがそろって
世界が完成されたモノであれば
僕らの心にも
光と闇があることが
最も自然なのかもしれない。
だから、
光り輝く自分がいることも
自然であれば
闇に沈む自分がいることも
自然だと思います。
だから、喜んでもいいし、
だから、悲しんでもいいし、
だから、笑ってもいいし、
だから、笑えなくてもいいし、
だから、美しくてもいいし、
だから、汚れててもいいし、
だから、強くてもいいし、
だから、弱くてもいいし、
だから、すごくてもいいし、
だから、未熟でもいいし、
そのプラスも、マイナスも、
光も、闇もある僕らという存在が
なんとなく、
最もこの宇宙の真実に近い気がします。
光を照らせば
後ろに必ず闇が生まれるように、
美しいモノがあれば
相対的に
汚れたモノがあるように。
その両方を
ちゃんと持っていることが
この世界の正しいあり方で
僕という人間の正しいあり方で
それでいいような気がしました。
2012年の春、
そんなことを想いながら
僕は過ごしていた。
光も、闇も、
強さも、弱さも、
すごさも、未熟さも、
受け入れたら
とても自然な自分で
いられるようになった。
肩の力が抜けて、
とても自然体で、
とても穏やかで、
とても平和な心になりました。
今日も、読んでくれて
ありがとね☺️🍀
いつも、ありがとう。
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